~~開業助産師と家族~~という日本助産師会出版の連続企画が、当助産院へ回ってきました。
とも子助産院のスタッフ助産師の佐藤由美子が、朋子ダーリンへインタビュー、それを山田円助産師がまとめて書きました。
以下は、日本助産師会の機関紙に掲載された文章です。何月号だったかな?
ちょっと、照れくさいけど、たまたまPCからファイルを見つけたので、転載してみます。
「助産院で暮らす」
風の強い11月。仙台の冬はもうすぐだ。私たちが勤務している「とも子助産院」では、外壁工事のための足場組みが先週から行われている。震災から1年8カ月、やっと修復工事が始まる。
入院中の母子は3組。ごはんの匂いと時々聞こえる赤ちゃんの優しい泣き声。11月分娩予定の方々がひと段落しても、助産師の朋子さんの毎日は忙しい。夜は入院中の母子を一人で見守り、昼は健診や学生指導、事務仕事・・。「とも子さん」「朋子さん」「トモコサ~ン!」1日に何回名前を呼ばれているのだろう・・。多くの人が集まる「とも子助産院」の真ん中で、院長伊藤朋子は、今日も誰よりも働いている。震災の2週間後にお父さんが亡くなられ、現在の伊藤家は、朋子さんのお母さんである久子ママと夫の賢次さんの3人家族。でも食卓を囲む人数はいつも大勢。スタッフや助産院を訪れる人達とでまるで緩やかな大家族のよう。くるくると動き回っている朋子さんに「意外と丈夫に産んでやれてたんだなあ。人に恵まれて、朋子はみんなに助けられでるべえ。」と久子ママがネイティブの秋田弁で笑っている。
助産院開業から13年。今日の「とも子助産院」になるまでのことを知りたくて、朋子さんを支える夫の賢次さんにインタビューさせていただいた。
「こんなお姉ちゃんがいたらよかったかも。」賢次さんが妻についてこう言った。朋子さんは伊藤家の3姉妹の一番上。お姉ちゃんとして育って、しっかり身についた長女気質。次男坊の賢次さんにとって、朋子さんのイメージはまず「長女」なのだそうだ。
2人の出会いはカヌー仲間の集いから始まった。2人乗りカヌーで、川を移動しながら5泊もキャンプしたこともあるそうだ。「朋子は本当は、ふかふかの布団があるところがいいんだと思いますよ。」と言いながらも、10数年前の思い出を楽しそうに話してくれた。結婚前から助産院開業を目指していることは聞いていた。助産院の名前もあれこれ考えていたそうである。34歳の時、「病院を辞める。ここでやらないとタイミングがない。」と言う朋子さんに賢次さんは「お産って怖いもの。事故になってどうにかなったら・・」と心配したが、朋子さんは、その心配の一つ一つを埋めていった。
アパートの1室で始めた「とも子助産院」。隣の部屋で進むお産の様子を賢次さんは心配しつつ、初めは面食らって、赤ちゃんの声が聞こえるまでは緊張が解けなかったと言う。「俺には関係ないんだけどね。」と言いながらも「産まれるとほっとする」のは今でも変わらない。とも子助産院では、分娩が入ると二十数人のスタッフみんなと家族に、一斉メールが送られる。24時間体制の郵便局にお勤めの賢次さんは、自分の夜勤中に助産院でお産があったことを知ると、「朋子も起きているんだな・・と思う。自分は終わって帰れば休むけど、朋子はそれから続けてまた動いている。仕事というより趣味だと本人は言うんだけどね。」と。
今の朋子さんに賢次さんからのメッセージ。「それでも休むところは休んだほうがいいんじゃないの?」。昔流行ったTVコマーシャル「24時間〜働けますか?」を見て、朋子さんは「休ませるって発想はないのかね・・変だよね。」と話していたそうだ。あの時そう言っていたのだから、きっと分かっているはずだと思いながらも、昼夜働く妻を見て心配している。「毎週ゴスペルの練習に時間を作って通うのが、息抜きになっていればいいな。お産の人を緩めるために始めたクラスだと思うけど、自分のリラックスにもなっているのかなと思う。」土曜の夜は妊婦ゴスペル隊の練習日なのだ。遅番の助産師に「留守番おねがいね~。」と声をかけ、朋子さんがうれしそうに出かけていく。そこでは大きな声を出し、発表会では、素敵なドレスに身を包みソロ歌唱もこなす。
現在の場所に3階建ての助産院として移って10年目。自宅兼助産院、常にたくさんの人が出入りする毎日について賢次さんは「もともと実家が大工でね、いつも職人さんが家にいっぱいで、小学生のころは若い職人さん達とよく一緒に風呂に入ったりしていたんだ。」と話す。育った場所は違うけれど、人に囲まれて生きてきた環境は似ている。「助産院の中は女性だけだからね。女の人ばっかりだというのが、今の俺には最大の問題。」と照れ屋の賢次さんが笑う。人の輪を、心地良いもの・大切なものとする2人の共通点が、ここでの出産をより温かい体験へと導いているように感じた。
そして昨年の3.11.のこと。大きな余震が何度もあり、建物の中にいることに危険を感じ車に避難した。寝たきりで点滴をしていたお父さんたちと車中で2晩を越したそう。いつもはガラクタ邪魔者扱いのキャンプ道具の数々もこの時ばかりは大活躍。震災2日目の深夜にお産もあった。ランタンの灯で手元を照らした。普段ならすぐ駆けつけるスタッフ助産師達も来ることができない。「何かあったら呼ぶから、そこにいて。」と助産師顔の妻に命じられ、賢次さんは産室の扉の前で待機させられた。赤ちゃんが無事生まれるまでの数時間、ストーブでお湯を沸かしつつ、ハラハラとした時間をともに過ごした。
これから賢次さんが朋子さんと行きたいと思っているのは三陸海岸なのだそう。「震災前は家が建っていたところなのに、津波で全部なくなった。それでも海はきれいで、自然もきれい。隠れた浜でいい所があってね。この前いった時はカヌーなんかできる状況ではなかったけれど、自然と人間のたくましさに感動した。」アウトドア派の賢次さんは、自然の怖さもよく知っている。「海にカヌーで出る時、風が一番こわい。流されて寄せられても、漕ぐしかない。体力がなければ、もっていかれる。海にはその厳しさがある。だから、状況を選んでやらなくてはいけない。自分でできる範囲を見極めて出かける。」船乗りの言葉で用心深さを表す「舟に片足かけたら臆病にならにゃあかん。」という言葉があるそうだ。心しても起こるときには起こる事故。セーフだったのは、運がよかっただけ。事故が起きないように、死なないために、いろいろ念入りに準備する。何事もそうだよな・・と賢次さんは語る。助産師がお産に向かう気持ちと一緒なのだ。自然を相手に、どこまでならば自分ができるのか・・と命のかかった判断をして進んでいる2人だった。
助産院の修復工事が終わり、新しい看板が掲げられる頃、伊藤家の新しい一年が始まる。